「何でもこう成る前に一言相談しなかった」大塚家具の久美子社長は2015年公開親子喧嘩をし委任状争奪戦で久美子社長が誕生した、久美子を支持する株主が久美子社長に経営権を与えられたのだ。
久美子社長は株主から支持を得たのだ、安売りのニぶトリと対抗する戦術を支持し父親の勝久氏は大塚家具から追われた。
大塚家具の久美子社長は父親と異なる
大塚勝久氏は創業時から「サービスに勝る商法なし」を掲げ大塚商会が創業時から掲げていた言葉が「サービスに勝る商法なし」であった大塚商会から買ってもらったお客さまに、やっぱり大塚商会は言ったことを守った。
期待した通りのことをやってくれたと言ってもらわなくてはならない、お客さまを大塚商会のファンにして、もう逃げられないくらいに思ってもらわなくてはならない、「それが今日の大塚商会を作っている」と、大塚氏は語っていた。
久美子社長は完全に経営権を得た勝久氏の経営は古い、ニトリのような経営を目指した。
株主も久美子社長に期待をよせた、一握りの株式は株を売り抜けたとも言われている(外資ファンド)久美子社長は一時は勢いは有ったが経営の悪化は意外と早かった、マスメディアでは中国の資金が入るなど騒がれた。
大塚家具の勝久氏は「私の最大の失敗は久美子を社長にしたこと」と言い新会社「匠家具」を大塚家具の目の前に立ち上げた、その経営はまったく大塚家具の創業時と変わらない経営だった。
12月11日大塚宅を訪れた久美子社長
久美子社長は4月「匠大塚」の開店に花束を持ち訪れている、今回の訪問はパホーマンスではなかった、1時間後に久美子社長は父親の勝久氏に告げた。
「明日分かります」と告げたのです、それはヤマダ電機えの身売りだったのだ、勝久氏は「何でもっと早く相談しなかった・・」沈黙が続いた争っていた娘が苦労続きを勝久氏は知っている。
やはり親子なのだ。翌日大塚家具がヤマダ電機の子会社が発表された、ヤマダ電機は大塚家具の株を51%を取得していた。
久美子社長は社長の「うつは」に非ず
大塚家具の創業者で父を追い出し決算はいつも赤字、いい加減株主は離れた、しかも赤字は3年も続くことになった、1年前は1200人の社員も千人を切っている。
大学生の同級生も勤務していたが大半は辞めた、久美子社長のぐちも少なくなった、言い換えればやる気がないのかも知れない。
久美子社長の子供時代
大塚家具の社長勝久氏は久美子は自慢の女の子だった、いつも学校の帰りに大塚家具の工場に見学し家具を眺めていた。ある日勝久氏は社員の前で久美子に「挨拶をしなさい」と求められる。
久美子はためらう事なくアドリブで堂々と挨拶をした、その時勝久氏は将来的に社長は久美子と決めたのだ、その久美子が勝久氏を追い出すとは誰も予想はしなかったのは当然だ。
まとめ
世間一般にも同族経営会社は多く有る、同族企業の良いところは有るのだろうか、私はないと思う、もし同族企業が良いと言うならば実の子供を平社員に置けるか。
実力の有る他人を社長にできる覚悟は有るか、それがないと同族企業は駄目だ、自動車のホンダは自身の子供は採用しなかった、共にした鈴木専務もホンダに採用しなかったのです。
大塚家具の久美子社長は社長の席を捨てるのが良いと親ならば思う、勝久氏は如何に思うのだろうか、最後までお読みいただきありがとうございます。
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